最新動(dòng)態(tài)
基本述語型の中に現(xiàn)われる助詞、つまり格助詞は、述語の表わす事柄を補(bǔ)うための補(bǔ)語を名詞とともに形作ります。言い換えると、述語と名詞との関係を表わす重要な役目を果たします。
それに対して、これから見ていく副助詞は、事柄の內(nèi)容そのものを形作るのではなく、それが付く名詞に対する話し手の何らかの評(píng)価や、そこに現(xiàn)われていないその外の名詞を暗示するような働きを持っています。
こういう説明のしかたでは、かえってわかりにくいかもしれません。具體的 な例を見てみましょう。
男の人來ました。
男の人(が)來ました。
男の人來ませんでした。
男の人來ました。
男の人來ました。
男の人來ました。
をつけたものが副助詞です。これらの文は「男の人が來た」という基本的な事柄そのものは共通しています。それぞれの違いは、この事柄に対する評(píng)価?見方の違いと言えばいいでしょうか。
例えば、「Nだけ」の場(chǎng)合は、來た人は全部男で、「女の人」が來なかったことを示しています。しかしそれは「男の人が來た」ことには変わりありません。
別の言い方をすれば、この場(chǎng)面を?qū)懻妞摔趣盲郡趣工毪、「男が」と「男だけ」の違いはその畫面では表わせません。同じ事実の、話し手によるとらえ方の差なのです。
「Nしか(~ません)」になると、述語が否定になることと、意味的にも否定になって「女の人」が來なかったことを殘念に思うような意味合いが出てきます。
「Nばかり」は全部男だったこと。そしてやはり女の人が來なかったことを殘念に思っているようです。
「Nも」と「Nさえ」はこれまでものとは違って、「女の人が來た」ことを暗示します!福韦狻工吓稳薐n13;ラス男の人、で、「男の人が來る」ことが多少予想外だったことも表わします!福韦丹ā工摔胜毪、その「予想外」の気持ちが更に強(qiáng)くなります。
以上の例文は、主體を示す「男の人が」に副助詞を付けた場(chǎng)合(「が」は省かれる)ですが、外の種類の補(bǔ)語や數(shù)量に付けると、意味合いや使い方の制限が違う場(chǎng)合があります。それらの一つ一つを、これから少しくわしく見ていきましょう。
副助詞は以上にあげた外に、「Nなど」「Nほど」「Nでも」「Nぐらい」「Nまで」「Nこそ」などがあります。
「Nも」は用法の広い助詞です。ここでその用法をまとめておきます。特に數(shù)量に関する用法が微妙です。
「Nは」の本來の役目は「主題」を示すことですが、副助詞としての用法もあります。他との比較のためにここでとりあげ、特に數(shù)量に関する用法に觸れます。
18.1.2 副助詞と格助詞の重なり方副助詞はいろいろな補(bǔ)語につきます。その時(shí)、格助詞と重なるわけですが、その結(jié)果どうなるかには、三つの型があります。
a 格助詞が消える場(chǎng)合 彼しか來なかった(彼が來た)
b 格助詞の後につく場(chǎng)合 彼にしか話さなかった(彼に話した)
c 格助詞の前につく場(chǎng)合 彼だけが來た(彼が來た)
b、cの場(chǎng)合は、格助詞が省略できることもありますが、aの場(chǎng)合は必ず削除されるという點(diǎn)が違います。
×彼がしか(×彼しかが)來なかった
あそこしか行かなかった(あそこにしか行かなかった)
彼だけ來た(彼だけが來た)
b、cのどちらにもなる組み合わせもあります。
彼にだけ話した
彼だけに話した
この格助詞の省略?位置という點(diǎn)についても注意して見て行きましょう。
では、副助詞の一つ一つを見ます。まず「限定」の意味をもつものからはじめて、次に、程度?數(shù)量など、例示、強(qiáng)調(diào)、その他と進(jìn)んでいく予定です。
Nしか(~ない):限定
「Nしか」は必ず否定を要求するという點(diǎn)で特殊なものですが、初級(jí)のかなり早い時(shí)期から使われるものです。後でみるように「だけ」との使い分けが問題になり、學(xué)習(xí)者の誤りの多いものでもあります。
(機(jī)はなくて、)いすしかありません。(いすがある:Nが)
お母さんしか來ませんでした。
學(xué)習(xí)者がまずとまどうことは、述語が否定形になっているのに、否定されているのはそこに出ている名詞ではなく、そこにない、何か外の名詞だということです。初めの例で言えば、「いす」はそこにあり、「ない(ありません)」のは「いす」以外の、例えば「機(jī)」だということです!袱袱丹螭筏珌恧胜 った」というのは、「お母さんは來た」のですが、この文で主に言いたいこと は「それ以外の人は來なかった」ということなのです。それ以外の人(例えば、お父さん)が誰なのかは文脈によってわかることで、この文からはわかりませ んが。
以上のことは、日本人にはまったくかんたんなことで、何が難しいのかわか らないような文型なのです(當(dāng)り前です。子供のときから毎日使っているのですから)が、初歩の學(xué)習(xí)者にとっては非常にわかりにくい、使いにくい文型なのです。ですから、彼らは「Nだけある/來る」などを使いたがります。
いすだけがあります。
お母さんだけが來ました。
これでは、否定的な意味合いが薄れてしまいます。
もう少し、主體以外の他の例を見てみましょう。
鳥は水しか飲みませんでした! 。ㄋ颍海韦颍
いつも學(xué)校(へ)しか行きませんでした。 (學(xué)校へ:Nへ)
Jn0;ミはここ(に)しか入れませんでした。 (Nにしか)
家の中でしか遊びません。 (Nでしか)
直通電車はこの駅からしかありません。 (Nからしか)
ここまでしか進(jìn)みませんでした。 (Nまでしか)
格助詞の現(xiàn)われ方を見ると、「が」「を」は必ず削除され、「へ」や「に」は省略してもしなくてもよく、「で」や「まで」は省略されるとわかりにくく なります。そして、いつも格助詞より後にきます。
數(shù)量についた場(chǎng)合は、それが(必要量?予想した量より)少ない數(shù)?量であることを示します。
100円しかない。(100円あるが、それはとても少ない)
10分しか続きませんでした。
5階までしか上がりません。
使える文型は動(dòng)詞文と「ある」の否定の「ない」だけのようです。形容詞文は不自然になります。
?今日のおかずの中では、これしかおいしくないです。
(cf. これがおいしくないです)
?今月は日曜日しか暇ではありません。(cf. 暇がありません)
×家族の中で、私しか健康じゃない/背が高くない。
(cf. 家族の中で私だけが 健康だ/背が高い)
×この中で、田中さんしか日本人じゃありません。
(cf. この中には、田中さんしか日本人はいません。)
比較の文型で、數(shù)量につけば形容詞でもいい場(chǎng)合があります。
安いと言っても、たった100円しか安くない。
今日はずっと早いと思ったが、昨日より20分しか早くない。